おうみリハビリだより

近江温泉病院 総合リハヒリテーションセンターの回復期リハ病棟・介護医療院・医療療養病棟・認知症治療病棟・ 近江デイリハセンターの理学療法・作業療法・言語聴覚療法の紹介

現在・月1回フォローさせていただいている36歳の青年・発症からの10年をご家族とともに振り返っていただきました。〜今や私の先生です。

                                                                     
 私は平成16年6月、25歳の時、脳出血くも膜下出血)を発病し右半身、言語、目に障害が発生しました。その後、病院⇒リハビリ⇒職業訓練を経緯し、
現在は元勤めていた会社に復帰することが出来ました。ここでは、発病してからこれまでのことを記録しました。皆さんの参考になればと思います・・・・・


自転車に乗れます 通勤風景

               
●発病前
  当時機械設計の会社に勤務していて、自宅のある近江鉄道桜川駅から会社のある多賀まで、毎日約1時間の通勤でした毎日朝7時頃に家を出ていましたが夜は遅く10時〜11時頃に帰宅する毎日でした。仕事の内容は工場の製造のラインを新設や変更する時にその内容をCADで図面化し工事を発注する仕事でした。毎日忙しかったのですが、私は大学で学んだことが生かせる職場で楽しい充実した日々でした。

●発病時(平成16年6月12日(土))
  会社から帰宅後夕食を食べ、その後入浴し就寝しました。朝1時頃に突然頭に大きな衝撃が走りました。その後の事はよく覚えていませんが、家族に聞くと突然大きな声を出し2階の寝室から1階のリビングに降りそこで倒れたそうです。たまたま気が付いた父親が見つけ、両親に近くの蒲生町病院に担ぎ込まれました。そこでレントゲンを撮り脳出血くも膜下出血)が起こっている事が確認されました。応急手当の後、救急車で豊郷病院から彦根市民病院に緊急入院し朝の5時頃から検査後手術が行われました。出血から時間が経過していたことから、生命の危険も十分あると言われていました。立ち会っていた両親には、出血場所が言語分野の近くで手術をして治っても大きな障害が残ると言われていました。手術後、意識がぼんやりと回復したのが半月位後でした、障害は右半分の手足、言語障害、目の右部分のブラインド等に起こりました。頭の手術の後遺症としてのてんかんの症状も出ました。

彦根市民病院(平成16年6月12日〜平成16年9月2日)
  生きるか死ぬかの状況から何とか脱しましが、一生ベットで生活又は車いすでの生活になるかもしれないと考えた時期でした。言葉が発せないことから便所に行きたい事の表現も出来ない、友達が見舞いに来てもしゃべれない等大変つらい日々でした。1日1時間ほどでしたが軽いリハビリを行っていました。後で考えると、この時のリハビリはリハビリと言えない程度のものと感じています。

●ボバーズ記念病院(平成16年9月2日〜平成17年10月15日)(平成16年11月9日〜平成17年2月16日)
  早く本格的なリハビリを開始する必要があると両親が考え、父親が勤務する近くの、大阪の日本でも有数のリハビリ技術を持つボバーズ記念病院に9月2日に転院しました。ボバーズ記念病院はイギリスのボバーズ先生が考えたリハビリ技術を実践している病院で、あの長嶋選手が入院を考えたほどの日本でも有数のリハビリ病院と聞いています。ここでは1日5時間程度のリハビリがメニュー化されており、かなり濃厚なリハビリを経験したと考えています。最初は車いすでしたが歩行訓練の結果退院時には杖歩行がなんとか可能となりました。ただし右手や言語は大きな改善をすることは出来ませんでした。発病後1年後(17年6月)に元には回復できないと査定され会社を退社しました。障害者手帳の認定申請や労災の認定申請もこの時期行いました。

済生会野江病院(平成16年10月15日〜平成16年11月9日)
  彦根市民病院では正確な検査が出来ない状態での緊急手術でしたので、不良血管部分の撤去や頭の骨の再生の為の再手術が必要とされていました。大阪の近くの済生会野江病院で再手術(10月27日)を行っていただきました。主治医の絹田先生はかなり有名な先生らしく順番を取るため両親は大変苦労をしたそうです。手術は比較的簡単に終わり3週間程の入院でボバーズ記念病院に戻ることが出来ました。彦根市民病院では放射線治療で考えられていましたがここでは確実な方法として頭開手術が行われました。

●京都リハビリセンター(平成17年3月1日〜平成18年2月28日)
  ボバーズ記念病院の退院期限が迫りましたが、まだ状況としては自宅等で1人で身の回りのことが出来る状況でないことからボバーズ病院の紹介で京都リハビリセンターに転院しました。入所したことで多くの障害になられた方と知り合いになりました。また、近くの気功教室に通う機会を得て巌先生という心の支えになる先生と知り合うこととなりました。中国北京の本院への気功教室仲間との研修旅行は大変思い出になる出来事です。巌先生はその後数年して癌でお亡くなりました。私にとっては大変ショックな出来事でした。1年後京都リハビリテーションセンターの退院時期が来ましたが、まだまだ1人で生活が出来ないことや、出来れば職業復帰をはたしたいと考えるようになり滋賀のリハビリ施設むれやま荘に転所しました。
      
京都植物園遠足風景        気功教室でのリハビリ風景
           
●むれやま荘(平成18年3月8日〜平成20年5月末日)
  障害を受け入れて生きていく必要があることをセンター長兼医院長の島田先生から教わりました。精神的にも島田先生にささえていただき、今後の生き方に少しは前向きに考えるようになりました。職業訓練を受ける中でパソコンの訓練があり、パソコンに関しての機能が残っていることが確認で来ました。さらに草津駅前の私設のCAD教室に通い訓練を重ねれば障害の状態でもパソコン操作ができることを確認しました。身体のリハビリでは、滋賀病院加圧治療(H17.9〜4回)を受けましたが長続きしていません。また、帰宅の途中で「てんかん」を電車内で起こし大津市民病院に救急車で運ばれ入院(H17.5.1〜6)したこともあります。今でも定期的にてんかんを抑える薬の調合を島田先生にお願いしています。

●国立リハビリテーションセンター(平成20年6月1日〜平成20年11月19日)
  職業復帰をするためには本格的な職業訓練が必要と感じ、色々と調べましたが国立職業リハビリセンターに入所することが近道かと考えハローワークに相談しましたら、岡山の吉備高原にある施設を紹介され1度挑戦をしましたが、言葉の表現がうまくできない為(ほとんど言葉のみでのコミニケーションは無理な状況でした)入所が出来ませんでした。そこで、障害の程度が大きい者でも受け入れてくれる、関東の所沢にある国立障害者リハビリテーションセンターに入所することにしました。ここは試験がないので希望すれば順番待ちで入所出来ました。滋賀を離れ遠くの埼玉県まで1人で行くことには大きな不安があり心配していましたが、このころ父親が東京で単身生活を送っていたので、ほとんど毎週会うことが出来たことや、高校時代の大親友が近くに就職していてたまに会いに来てくれたので、ホームシックが比較的軽く済みました。また週末には父親又は夜行バスで埼玉まで見舞いに来た母親と新宿や渋谷で買いものや食事を行う機会に恵まれました。また、何らかの形で障害を持つことになった人に沢山接することで、自分の状況を客観的に見る事もできました。CAD製図の訓練も丁寧に教えていただき順調に訓練が進みました。

●国立職業リハビリテーションセンター(平成20年11月20日〜平成21年11月19日)
  半年ほどCAD訓練を受けた後、最終的な目的である国立職業リハビリテーションセンターの入所試験を受けました。施設が国リハと併設されていることで場所に慣れていることや、少しゲタを履かしていただいたようで、機械CADコースに無事合格で来きました。ここでは、毎日8時会社時間に出勤する生活習慣訓練や、機械CAD製図で会社レベルで何とか出来る成果が出る様になりました。先生にはCAD図面作成は問題ないが、コミニケーシヨン能力に大きな問題が有ると指摘されていました。また、卒業に向け就職試験も東京や滋賀で何回か挑戦しましたが内定が取れない状況でした。
                             
終了証書です       卒業時の集合写真
              

●職場復帰後(平成21年11月21日〜現在)
  現在の職場は以前勤めていた会社です。労災関連の手続きのお礼に父親が会社にお伺いしたら、職場に自分で通勤することが条件で、復帰する意欲があるのであれば受け入れる用意が有るとの言葉を頂きありがたくお受けしました。現在、蒲生地区から野洲まで電車通勤し通常勤務を行っています。朝5時半に起き7時に自宅を出て8時に会社に着いています。夜は出来る限り残業しない形の勤務になっているので夜7時頃には家に着いています。会社の親睦ボーリング大会や夜の歓送迎会の出席は進んで行っています。健康管理としては、2か月に1回むれやま荘に通いてんかんの薬を頂いています、また、月1回近江温泉病院でリハビリの指導を受け自己訓練の基礎としています、また、週1回近江八幡駅前の整形施術院でマッサージ治療を受けています。これらは現状の状況を保つための最低限の自己管理と考えています。外出行動も京都程度であれば1人で行っています。自転車も3輪車ですが乗っており近くのコンビニでの買い物等を行っています。1人で暮らすにはコミニケーション能力障害が重いことで、今後両親が老齢になり現在の介護が受けられない状態になった時の心配はありますが、現状の生活を出来るだけ長く続けていけることが当面の目標です。   

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ありがとうございました。
1歩1歩・・・前へ、歩みを止めず進すための、家族の支援・本人の努力・・・一歩一歩・・・そして今がある。あらためて多くを学ばせていただきました。